ひとんべ

『ひとんべ』

 

男は学者だった。植物学を修めたあと、今は国や自治体の依頼を受けて山の植生を調査することを生業としていた。もちろん机上での研究もしていたが、依頼を受けて日本各地を飛んで回るほうが男の性分に合っていた。四十手前にしては若く見える、黒髪に眼鏡をかけた風貌をしていた。

「オハセ山はこちらですか」

男は軍手を付けながら初老の男に問うた。今日はこの、北陸からやや南に下る山中で調査がある。幸いにも拠点にできそうな小さな村がすぐ近くにあったため、無理を言って民泊させてもらっていた。

「ええそうですよ。でも本当に行くんですかい?まだ春というには寒い時期だ。オハセ山は雪が残っとるよ」

村人の一人である男は心配そうに答えた。そこにやや若い女たちが三人ほど徒党を組んでこちらにやってくる。それぞれの手には笹の葉で器用にくるまれたおむすびが握られていた。

「あのう、よかったらこれ持っていってくださいな」
「山の奥まで行くならお腹減りますよ」
「中は、ウチらがそれぞれ漬けた漬物だかんね。あとでどれが一番美味しかったか教えてね」

都会風の男に浮き足立っているのだろう。女たちは男の礼にもきゃあきゃあ言いながら騒いで、つむじ風のように家へ戻っていった。それを見ていた村人が困ったように「すいませんねえ」と笑った。

「冬の間は車で山を降りるのもできませんで。あの娘らも退屈しとったんでしょう」
「いやいや、助かりますよ。おかげで今日は乾パンじゃなくて美味しいおにぎりが食べられます」

男は笑いながら脱帽して一礼した。相手もつられて軽く頭を下げたあと、「あ、」と言って神妙な表情で男を見た。

「ひとんべには気をつけんさい」

男は一瞬、なんと言われたのかわからなかった。呆気に取られていると念を押すように「ひとんべに触ったらいかんですよ」と言い含められた。

「ひ……ひとんべ?ですか?聞いたことありませんが……」
「ありゃ、このへんの名前なんか。ひとんべ以外の呼び名を知らないので恐縮ですが、ひとんべはオハセ山でたまにあるツタの塊といったらいいか。とにかく触ったらいかんですよ」
「毒が?」
「いや、そのツタ自体にはないと思います。でも中にいっぱい虫がいるんですわ。百足やらなんやら。だから触ったら……」
「ああ、たかられるんですね」
「ええ」

村人は触ったことがあるのか、苦りきった表情で身震いした。

「でも興味深いですね。ひとんべなんて初めて聞く名前だ。植物の名前じゃなくて状態を指すのかもしれませんが」
「ああ~、そうですね。塊をひとんべと言うことが多いかな?気にしたことなかったけど、たしかにツタ自体はなんて草なのかはわかりません。葉は自然薯に似てますがね」
「じゃあ、オニドコロですかね。花は夏ごろに?」
「いや、ひとんべができる頃なので、もう咲いてますよ」
「なら時期はずれだな……」

男は首をかしげる仕草をしながらも、その表情は明るかった。このような未知の出会いにこそ学者の本性が顔を出すのである。

「ぜひ観察したいですね。もちろん触らない範囲で」
「ええ、見るだけなら全然問題ないと思いますよ。お気をつけて」

冷えた朝の空気を大きく吸って、男はオハセ山へと歩き出した。

言われたとおり、山にはまだ雪がそれなりに残っていた。それを見越して雪靴を履いてきたので進行には問題なかったが、例の“ひとんべ”を見つけたくて気が散っていたせいで進捗には問題があった。結局、男が昼前に着くはずだった山腹の調査エリアには昼過ぎに到着した。

男が荷物を下ろしている間も、ブナから垂れさがったオニドコロの実が風に吹かれてカラカラと鳴っていた。当然ながら花をつけているオニドコロなどなく、他の蔓性の植物も落葉して茶色く乾いている。

「アケビがよっぽど早く開花するとか?でも葉の形が違うよなあ」

独り言を言いながら、本来調査するはずだったコシアブラもそっちのけで“ひとんべ”を探し回る。周りにあるのは典型的なブナ林で、生い茂る草もシダやソテツといった年中見るようなものばかりであった。

そうやって30分ほどうろついた頃だろうか、男はやや遠くにあるブナに大きな影が落ちていることに気づく。ここからではよく見えないが、反対側の幹に蔓性の植物が大量に絡んでいるようだった。男はアウトドア用の頑丈な眼鏡の奥で少年のように瞳を輝かせ、小走りで影が落ちるブナへと駆け寄った。近づくにつれ村人が言っていた「自然薯に似た葉」が地面に増えていく。そしてブナの反対側に周り、男は前傾姿勢から思わず後ろに飛びのいた。

たしかにそれは自然薯に似た植物の塊だ。何百もの蔓が複雑に絡み合い、他の下草も巻き込んで一個の巨大な輪郭を作っている。

それは、ブナにもたれかかり足を投げ出している人間の形をしていた。

「おいおい……」

男は思わず声を出した。富士の樹海で似たようなものを見たことがある。腐りかけの死体にクヌギやコナラの実──いわゆるドングリが落ちたり、他の草本の種子がついたりして“そこ”から芽吹くのだ。

心底嫌そうな顔を浮かべながら念のため写真を撮り、周囲に遺品がないことを確認して男はナイフを取り出した。中身を確認して想像の通りだったらすぐに警察に通報しなければならない。白い花を散らしたそれの一角、人でいうならちょうど胸のあたりに刃を入れたが、その瞬間、胡麻が噴き出したのかと思うほど無数の小さな虫が隙間から逃げるように飛び出してきた。

「勘弁してくれ……!」

男は軍手に上ってくるハサミムシのような胴の長い多脚の蟲を払う。ナイフでツタを切り分けるたびにムカデじみたものやコバエなどがとめどなく顔を出し、そのうちのいくつかは男の雪靴の中へと入っていった。男が重心を移動させるとグチュ、という嫌な感触が足の裏に伝わった。

それでも必死に蔦を掻き分け、地面が見えた。

「……は」

貫通したのだ。
中に苗床となっている死体はなかった。
骨すらもない。

この草で出来た人影の中には、蟲しかいない。
人の影だけ。
人の輪郭だけ。

「……人の辺」

ひとんべ。

男の汚れたかかとから脳天にかけて一気に怖気が走る。叫びにならない荒い息を漏らして尻もちをつき、そのまま後ろに下がって距離を取った。奇しくもひとんべと向き合って座るような格好になる。ひとんべは動かない。当然だ。植物なのだから。あるいは、虫こぶか。いずれにしろ生き物ではない。

ひとんべの首の角度が少しだけ下に動いた。男は呼吸を整えながら冷静に考える。あれは中の虫が飛び出したせいで支えがなくなったせいだ、と。

しかしどうしても体が動かなかった。まるで獰猛な野生動物に見つかったときのように、自分がそこにいると知られたくなかった。心臓だけがバクバクと暴れていた。

「た、ただの草だ」

男は震える足でゆっくりと立ち上がった。その拍子に、懐に入れていたおにぎりの一つがぼとりと落ち、枯れ葉を踏みながらひとんべの足じみた部分に転がった。ぱりぱりぱり、とツタが折れる音がする。ブナにもたれかかったそれが上半身を緩慢に倒し、落ちたものを覗き込んだ。

少なくとも、男にはそう見えた。

「あああ……」

男は叫びながら踵を返し、薄く雪積もる山道を転がるように駆けた。後ろを振り返ることなど、できるわけがなかった。ぱりぱりという音が自分が枯草を踏む音なのか、あれが追ってきている音なのかわからなかった。些細な山の音が男の恐怖を駆り立てた。鳥が飛ぶ音も草を踏む音も枝が折れる音も、あれが動く音ではないと誰が言い切れるだろうか。がむしゃらに走った末、男はなにかに足を取られて転んだ。脇腹を倒木に打ち付けて、ようやく少し冷静になった。

立って足元を見れば、高さ30cmほどの石がある。これに躓いたのだろう、と男は気を紛らわすように石に視線を近づけた。

ほとんど掠れていたが、「小長谷部」と彫られていたようだった。

「こなが……いや、こはせべ、……ああ、」
「お、オハセベか」

飛騨の山々のほうで有名な話がある。
小長谷部氏という氏族が住んでいたという。これにあやかって、周囲の地には彼らの名に由来する名前がつけられた。
彼らの読みはオハセベだったが、口伝てで使われるうちにそれは「ハセ」や「オハツセ」として各地に残ったという。

「ここも飛騨に近い……。だからオハセ山か」

男はそう呟きながらも、頭には別の文字が浮かんでいた。
オハセベに由来する地名にはもう一つ、有名なものがある。

オバステ。

「姥捨て」と当てられる呼び名である。

古くは9世紀ごろからある、老いた親を棄てるための山の伝説。それこそ、この飛騨に近い山々が舞台なのだ。

「……ショクダイオオコンニャクやハンマーオーキッドのように、」

男は推測と恐怖を切り分けるように呟く。

媒介者を効率よく集めるために他の生き物に擬態する植物は意外と多い。ショクダイオオコンニャクはハエに自身の花粉を媒介させるため強烈な死臭を放つ。ハンマーオーキッドはメスのハチを模した花弁でオスのハチを引き寄せる。

死骸を装う植物も、姿を変える植物も珍しくない。

「もし本当にここが姥捨て山として使われていたなら……死体が、あったはずだ。それもたくさん」

「虫たちにとって死体は忌むべきものじゃない。寝床にも食糧にもなる。だから、集まる」

植物にとって、生き物の死骸は媒介者の宝庫である。
もしキツネや鹿といった動物より、多く早く生まれる死骸があったなら。
長い年月をかけて、“それ”を生存戦略に選んだ植物が居てもおかしくはない。

ひとんべは、ただの植物である。

それが男がたどり着いた結論だった。

男の結論を証明するように、暗がりの山道を追ってくる気配も、異境からの怪物の声も聞こえない。今ここにある事実としては、蔦性の植物が人の形に似た状態で群生していた、それだけである。

報告書に書くなら「人間の死体が散見される特異な環境で生まれた固有種」となるだろう。そうしてそうなったら、普段の仕事と変わらない。

だが、男の心臓は未だに張り裂けんばかりに震えている。男は無言で石に背を向け、荷物を置いてきた“ひとんべ”の居るエリアへと向かい始めた。

自分を囲む木々をぬって寒い寒い風が吹く。
葉が落ちて視界が広いせいか、ところどころ枝が折れたブナがどうしても目に入る。

「雪の重みで折れたんだろう」

男は独り、語気荒く呟いた。

その昔、棄てられにいく老母は息子が帰りに迷わぬよう、もっこの中から枝を折って目印にしてやったという。

どこかで聞きかじっただけの物語が、今はどうしても鮮明な情景となって頭から離れなかった。

男は山を登っていく。
仕事を再開するために──男の日常に戻るために一歩一歩草を踏む。

なにかをかき消すような荒い足取りは、死臭のする伝承をなぞるようだった。

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skebリクエスト作品でした。

◆リクエストしたい内容/要素
・やや気持ちの悪い描写の植物
・虫
・『啓蟄』冬から春に移り変わる際、芽吹く花芽にたかる虫のような概念/雰囲気

という、面白いお題だったのでやりがいがありました。こういう概念お題っぽいの、意外と好きかもしれない。

リクエストありがとうございました!

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