二度帰る男

『二度帰る男』

 

秋の彼岸が終わり、冬の備えを始める頃だった。まだ本格的なアウターを出す前だったせいで墓参りは寒かった。梓(あずさ)は、その反省を活かして帰ってすぐにコートを一枚引っ張り出し、玄関にかけた。4階にある、そこそこ広いマンションの一室。ただの一介の美容師である我が身を顧みればあまり身の丈に合っているとは言えなかった。

一昨年まで、ここに転がり込んでいた男を思い出す。紺田(こんだ)という無骨でむさくるしい男は、突然この街に帰ってきて梓の部屋をノックした。中学以来の再会だったが特段仲が良かったわけではない。だから玄関にヌッと彼の岩のような顔が現れたとき、梓は何か犯罪に巻き込まれたのかと思った。

「紺田だ。覚えてっか。覚えてなくてもいい。しばらくここに住む」

それが、第一声だった。紺田は梓の返事も聞かずに上がりこみ、泥だらけの大きなボストンバッグをリビングに投げ、ソファに寝転がった。梓は呆然としたまま彼の顔を見るしかできず、そのおかげでかつての同級生だと思い出したのだ。

「アツシか、お前」

アツシというのは、紺田の下の名前である。梓のクラスには「今田」と書いてコンダと読む同級生も居たから、紺田のほうが下の名前で呼ばれていたのだ。どんな漢字かは、忘れた。

「早いな」

紺田は意外そうな表情を浮かべてソファから少しだけ身を起こした。使い古した汚い革ジャンの下は襟首が茶色くなった元は白らしいランニングを着ていた。とにかく全部が汚れていて、そのせいで梓が買ったばかりのソファクッションは一瞬で泥まみれになっていた。

「まあ。よく見たら無精ひげ以外は全然変わってないし」
「ガタイはよくなった」
「そんなもんだったろ」
「いや、あれから10cm伸びたし30kg増えた」

そうなのか、と梓は思った。中学時代からデカい奴だったからそんなに変わってる印象は受けなかった。

「今日から住むって?」

梓は紺田とは打って変わって長く伸ばした洒落っ気のある前髪を触りながら、本当なら真っ先に聞くべきことを聞いた。

「ああ、代わりになんでもしてやるよ。金以外」
「家事できるのか」
「でき……る」

紺田は首筋をぽりぽりと搔きながら目線をそらした。ろくにできやしなさそうなのは一目見たときからわかったのだが、意外と……という期待を込めて聞いてみて、空振りだった。

「家賃も家事もダメじゃあ交渉にならねぇだろ」
「でも、」

置いてくれるンだろと紺田は言った。その言葉を受けて梓は実際自分がそのつもりだったことに気づいた。しかしすんなりそれを認めたくなくて、整えられた眉を精いっぱい顰めて怖い顔を作ろうとしたのを覚えている。

「俺は慈善団体じゃないんだぞ」
「そんな可愛い顔をしなくてもわかってるって」

紺田は寝転がったままどこか懐かしそうな目で天井を見上げた。

「中一の頃、俺がケガだらけで河川敷うろついてたとき、お前、通りすがりのくせに急に『乗れよ』ってチャリの荷台貸してくれたろ。そンで俺を乗せたままめちゃくちゃ死にそうになりながら漕いでたっけ……。お前、俺の半分くらいのガタイしかなかったよな」
「何の話だよ」
「いや、だからさ、理由も聞かないで家まで送ってくれたろって。それを覚えてたから来たンだよ」
「ガキの頃チャリで送ってくれたから大人になったら家に住まわせてくれるだろうって?」
「違うのか?」

梓は、ため息をつき、そのため息を以て肯定とした。すべてが紺田の言う通りになった。梓は理由も聞かずに紺田の居候を受け入れ、家賃すら取り立てなかった。紺田は一応掃除や洗濯をしていたように思う。料理もたまに作ってくれたが、決してありがたく思えるような味ではなかった。梓は黙って食べた。他愛のない会話は毎日したし、休日紺田のマトモな服を買うために二人で出かけたりもした。そうして1年半が過ぎた。

ある朝「もう出る」と言って5000円だけ置いて紺田は出て行った。
次に名前を聞いたのは死んだという報せだった。

山の中で死んでいたらしい。遭難のあげく足を滑らせて死に、顔は野生動物に食われておよそ確認できるものではないという話だった。誰も梓が紺田と同棲していたことは知らなかったから、梓がその話を聞いたのはとっくに葬式が終わったあとだった。

だから彼岸の墓参りだけはしたのだ。

紺田の墓はこの街の古い寺に建てられたらしい。人づてに聞いて行ってみれば確かに「紺田家」と書かれた墓があった。花はなかった。ここに紺田アツシは入ったらしい。

らしい、らしい、らしい。墓参りまで行ったのに、梓はどこまでも他人事だった。あの日から紺田は宙に浮いたままで、梓をあの変に見透かしたような眼で見下ろしてくる。あの1年半の間に自分はなにかするべきだったのだろうか。梓は玄関にかけたコートの前で意味もなく立ち尽くしながらそう考えた。あの日からずっと考えていることだった。

結局答えは出ず、梓は広いリビングに向かい、広いキッチンに向かい、1人分のどんぶりに冷凍ごはんを開けてレンジに突っ込んだ。レトルトの八宝菜を手に取り、鍋に水を張る。そしてコンロを火を点けようとしたときに、ガチャリと玄関の扉が開く音がした。

驚いて玄関に向かい、梓は息を飲んだ。

薄暗がりの玄関に紺田が立っている。

紺田は頭から靴まで全身ずぶ濡れだった。見慣れたはずの骨ばった顔は梓が知っている威圧感の欠片もなく、髪の黒さを際立たせるほど青白かった。虚ろな表情の上をいくつもの水滴が滑り落ち、紫がかった厚い唇を通り、ぽたりぽたりと玄関の床を濡らしていく。ああこの男は。梓は釘付けになりながら思う。「この男は彼岸から俺の下に帰ってきたのだ」。そう思った瞬間、梓の口からは脈絡もない言葉が出た。

「だ、抱かせてくれ」

白く冷たい紺田の手を取って廊下に引っ張り上げる。今度は梓が返事を待たない番だった。紺田は連れられるまま、廊下を濡らしながら寝室まで入り、服を脱がされ乱暴に体を拭かれた。梓は紺田の肌の冷たさに身震いしながらも強引にベッドに押し倒した。厚く固そうな唇に自分の薄い唇を重ね、乾ききった口内に唾液を押し込むように舌を絡めた。くちゅ、ぐちゅ、と梓の独りよがりな音が響く。

「っ、アツシ……、ん、」

唇を離して汚れと生傷だらけの胸に口づける。相手の表情を伺う余裕はなく、心臓の音を確かめる勇気もなかった。梓はただ情動に突き動かされながら、ときおり浅い吐息を漏らす紺田のたくましい足を持ち上げた。青白くなった腿にはやはり無数のあざや擦り傷があった。

「ずっと考えてた。一緒にいた頃になにかするべきだったんじゃないかと」

目を伏せながら梓は一人で呻く。

「そ、それはお前の力になる、とか……そういうことを自分でも考えてるんだと思ってた。けど、違った」

「違った。ごめんな」

梓の謝罪に返事はなかった。すすり泣きと共に肉と肉が交わる音が部屋に響いた。

瞼越しに光を感じる。

梓は薄目を開き、ゆっくりと身を起こした。恐ろしいほどに体が冷えている。ぐっしょりと濡れたシーツは防寒の意味を成しておらず、裸の梓を芯から冷やしたようだ。カーテンの隙間から朝日が差していたが、梓の頭の中は未だ幽冥の内にあった。

「……」

現実に戻らなければ、と梓はベッドから足をおろす。その瞬間、乱暴に寝室のドアが開いた。

「起きたか」

半裸の紺田が右手に食パンを、左手にビールを持って立っていた。血色はすこぶる良く、生傷には雑にばんそうこうが貼っており、風呂上がりなのか肩から湯気がのぼっていた。

「……え」
「死ぬかと思った」

紺田はドカッと音を立てながら梓の隣に座った。食パンを持った手をちょっと上に掲げ、もらったという意味のジェスチャーをしたかと思えば、一口で食べてしまった。

梓は手で顔を覆ったあと頭上までひと撫でしてもう一度「え?」と言った。

「水の一杯ももらえねぇまま2回もヤられて死ぬかと思ったっつってンだよ」

紺田はビールを煽る。

「意外と乱暴なんだな」

缶をサイドテーブルに置き、紺田はうすら笑いを浮かべて梓の髪を触ろうとした。梓は咄嗟に手を掴んで止めた。

「死んだって聞いたが」
「そういうことになったな」
「い、生きてるならしなかった」
「は?」

梓は一瞬黙り、蚊の鳴くような声で「幽霊だと思ったんだ」と白状した。その言葉を受けて、明らかに生きている隣の男は身を捩って梓の顔を覗き込んだ。知った通りの威圧感が目の前に来る。梓はそのまま押し倒されるような格好になってしまった。

「可愛いよな、ホント」

厚い、赤みがかった唇が梓の唇に押し付けられた。

「ん……アツシ」
「お前が俺に惚れてンのは」

中坊の頃から知ってた、と紺田は言い放つ。

「だからなーんも聞かないで置いてくれるだろうと思ってたが、まさか死んだあともそうなんてな」
「聞くって、何を」
「俺が何してんのかとか」
「ああ、事情とか」
「そうそう」

言いながら、紺田は梓のこめかみにキスをする。梓はいつぞやのように眉間に皺を寄せて精一杯憮然としていた。

「そんなことより、俺がお前を好きだなんて、俺は昨日気づいたんだが中坊の頃からってどういうことだ」
「そんなこと?」

紺田は口の中でくっくと笑い、嬉しそうに横に寝ころんだ。

「言っただろ、俺を送ってくれたってやつ。これでも家の前に着いたときのお前の顔は今でも覚えてるンだぜ」
「赤くなってた?」
「いいや、変わらずなまっちろい顔だったよ。でも俺のことをじっと見て、ハンカチで血まで拭いてさ、『また明日』なんてさ、可愛いだろ。普通、もっとあるだろ。『喧嘩したのか?』とかさ。それでも遅すぎだけどよ」
「喧嘩したのか?」
「聞いてどうすンだよ」
「俺も思ってるよ。でもお前が今言ったんだろ」
「聞いてほしいって意味じゃねぇよ。そこがわかりやすくて可愛いって話」
「……ふーん」

梓はそうかもしれないな、と呟いた。たとえ紺田が相手じゃなくても詮索しなかったと思うが、そもそも他人に対して能動的になにかするということがないから、やはり紺田だけだったのかもしれない。

「お前は俺のこと好き?」

考えた末、出た言葉がそれだった。

「かなり」

紺田は迷いなく肯定した。梓はようやくしかめ面をやめ、紺田の顔を見た。
無精ひげを散らした大きな口がニッと笑っている。

「だから帰って来たんだぜ」
「なら、俺からは文句ないな」

梓が腕を広げると紺田は自分から体をすり寄せてきた。二回りも大きそうな体を抱きしめて首筋に顔を埋める。紺田の匂いが肺に充満し、本当にあっけなく帰ってきたものだとどこかで感心した。

「新しい上着と鞄がほしい。もう全部ねぇや」
「ああ、朝飯食ったら行こう」

紺田の頭をひと撫でしてベッドから出た梓の背に、誰が死んだと思う?と声がかけられた。

「お前以外の誰かだろ」

梓は振り向きもせず返した。

紺田の一層嬉しそうな笑い声が部屋に響く。梓は不思議そうに片眉を上げたが、すぐに落ちてたトレーナーを拾って着替えを始めた。

おわり


 

skebでのリクエスト作品でした。ありがとうございました!

▼ヴォンボのskebはこちら

https://skeb.jp/@deitoro
タイトルとURLをコピーしました
inserted by FC2 system